西教寺(滋賀県大津市坂本)にある明智光秀一族の墓をご紹介

明智一族の墓 大津 西教寺

西教寺は滋賀県大津市坂本にある天台真盛宗の総本山です。歴史は古く聖徳太子が開いたと言われていますが、一時期はすたれていました。

室町時代に真盛が寺を復興し、栄えるようになりました。
この寺には明智光秀一族の墓や供養塔があり、明智家の菩提寺となっています。このページでは西教寺にある明智一族の墓や供養塔についてご紹介します。

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西教寺が明智光秀の菩提寺と言われる理由

西教寺は比叡山のふもとにあります。

織田信長が比叡山の焼き討ちをした際に、この西教寺も被害に遭い焼失してしまいました。

比叡山の焼き討ちは信長が命令を下しましたが、明智光秀は実行部隊の中心人物として動いたと言われています。その結果、多くの僧侶や民間人が亡くなります。信長は光秀に比叡山焼き討ちの戦後処理を任せるために志賀郡(約5万)を与え、そのころに坂本城を建てたようです。

光秀は主人の命とは言え、多くの寺院を焼失したことから、西教寺の復興に力を入れました。現在の西教寺の大本坊も明智光秀が建立したものと言われています。

西教寺にある明智一族の墓

では、実際に西教寺にある明智一族の墓を見てみましょう。

明智一族の墓(供養塔)は境内の奥にあります。

明智家の墓の案内図

西教寺の明智一族の墓への行き方

正門から長い坂道を上がると「明智一族の墓」の案内板が出てきます。

こちらが正門です。この参道を上がっていきます。
西教寺 参道

すると次のような案内板があります。
西教寺 案内板

案内があるので迷うことなく行けますよ。
西教寺 案内板

ここからさらに石段を上がっていくと本堂があります。本堂の横(西教寺の墓地の前)に供養塔があります。
西教寺 石段

石段は結構傾斜があるので、足に自信がない人は車で本堂近くまで行くのがおすすめです。

ちなみに西教寺は寺院ですが、上の写真のように城のような石積みがあちこちに見られます。これは坂本地域で活躍した穴太(あのう)衆という石積みの職人集団がいたことを示しています。織田信長が建てた安土城にもこのような穴太衆の石積みがありました。

光秀の供養塔

明智光秀の墓は西教寺にはありません。光秀の遺体そのものがどこに埋葬されているのかは不明だからです。

しかし、西教寺の復興に尽力したことなどから明智家の菩提寺と言われ明智光秀の供養塔があります。

明智光秀の供養塔

この大きな石の像は光秀の供養塔です。今もお花とお線香が手向けられています。ちゃんと桔梗(ききょう)の紋が彫られていますね。
供養塔には次のように記されています。

秀岳宗光大禅定門
南無阿弥陀仏
天正十年六月十三日

天正10年6月13日は光秀の命日ですが、西教寺では毎年この日に「光秀忌」を営んでいます。

明智一族の供養塔

本能寺の変の後、山崎の合戦が起こり、明智光秀の居城だった坂本城(滋賀県大津市)の攻防が続きました。しかし、その戦乱で妻木(明智)藤右衛門廣忠の兄弟三人が戦死。一族郎党も多く討ち死にしました。
坂本城が落ちた後、廣忠は一族を西教寺に埋葬し、供養します。そして、光秀の妻・煕子の墓前で自刃したと言われています。

明智一族の供養塔

西教寺の過去帳には明智の家臣などの名前が記されているのだとか。

明智一族の供養塔

墓地の中には明智一族やゆかりの一族の墓があるそうですが、墓地には西教寺の檀家さんのお墓もあるため、撮影は控えさせていただきました。

家臣の供養をした光秀

明智光秀は元亀4(1573)年に堅田(かただ)城(滋賀県大津市)での戦いで家臣を亡くしました。その供養として西教寺に供養米を寄進していますが、重臣だけでなく足軽たちの供養米も寄進したという記録が残っています。

明智一族の供養塔

光秀の妻・煕子の墓

こちらは光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓です。

明智光秀の妻・煕子の墓

当時の武将は側室を持つことが多かったのですが、光秀は側室を持たず正室の煕子だけを生涯の妻としました。その妻が自分よりも早く、若くに死亡した妻の供養を西教寺で行いました。煕子の享年は48歳、36歳、42歳など諸説があります。

当時、男性が妻を先に亡くした場合、夫は葬儀には参列しないことが多かったそうです。ところが光秀は妻・煕子の葬儀に参列しました。愛妻家の一面がうかがえますね。

煕子を詠った芭蕉の句

煕子の墓のすぐ近くには芭蕉の句碑が建っています。これは煕子のことを俳句にしたもので、「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」とあります。

芭蕉の句

光秀が越前の朝倉氏のところに身を寄せていたころ、連歌の会に参加したいがその費用が捻出できませんでした。

そこで妻の煕子は自分の黒髪を切って売り、酒や料理に充てたのだとか。内助の功として夫に使えた煕子を光秀は生涯大切にしました。
芭蕉はその話を聞いて俳句にしたのでしょう。

明智煕子の墓の説明 

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西教寺にある明智光秀の辞世の句

西教寺には明智光秀の辞世の句の碑もあります。

明智光秀 辞世の句

順逆無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元

これは山崎の合戦の折、光秀が自刃する前に家臣に託したものと言われています。
西教寺の説明書きによると、
「修行の道には順境と逆境の2つがあるが、これは二つにあらず。実はひとつの門である。すなわち順境も逆境も実はひとつで究極のところ、人間の心の源に達する大道である。しかしてわが五十五年の人生の夢も醒めてみればすべて一元に帰するものだ…
という意味があるそうです。

西教寺を訪れた際には供養塔に参拝すると同時に光秀の辞世の句もぜひご覧ください。

西教寺 明智一族の供養塔 配置図

明智一族の供養塔は西教寺の本堂の横(本堂を正面に見て左側)にあります。

手前に妻木(明智)一族の供養塔、そして芭蕉が詠んだ煕子の句、奥に煕子の墓があります。
西教寺

こちらは光秀と一族の供養塔と辞世の句碑の配置です。

西教寺

まとめ

今回は滋賀県大津市坂本地域にある西教寺の明智一族の供養塔をご紹介しました。

西教寺には明智光秀の供養塔、明智一族の供養塔、明智光秀の妻・煕子の墓などがあります。また、光秀の辞世の句碑も建立されています。

お寺の方に聞いても、地元の方に聞いても、「光秀は坂本の地域を守り、寺院の復興や地域おこしに尽力した人」と話しておられ、今でも親しまれていることがわかります。

ぜひ一度参拝してみてくださいね。

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