明智光秀の出身地は美濃ではなく滋賀県多賀町だった!?十兵衛屋敷跡地の様子

光秀の十兵衛屋敷跡 明智光秀

織田信長を本能寺の変で討った明智光秀の出生年や出生地、生い立ちなどははっきりわかっておらず謎が多い人物だと言われています。

当時は有力武将や由緒ある家に生まれない限り、記録なども残っていなかったのでしょう。

さまざまな資料から光秀は美濃(現在の岐阜県)土岐氏の支流である明智家に生まれたという説が有力で、2020年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも美濃出身という設定になっています。

しかし、近年の研究や新たに発見された資料などから滋賀県彦根市多賀町では?という説が浮上しています。このページでは明智光秀の出生の秘密を詳しく説明します。


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明智光秀の出生地は6つもある!?

実は明智光秀の出生地と呼ばれる土地は下記のように各地にあり、その多くは岐阜県内です。

  1. 岐阜県可児市 明智城
  2. 岐阜県恵那市 明智町
  3. 岐阜県瑞浪市 一日市場(ひといちば)八幡神社(土岐市発祥の地)
  4. 岐阜県大垣市 多羅(たら)城
  5. 岐阜県山形市 中洞(なかほら)白山神社
  6. 滋賀県彦根市多賀(たが)町佐目(さめ)

岐阜県可児市の明智城

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では岐阜県可児市が光秀出生の地として描かれています。可児市にあった明智城で生まれたということです。

美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が明智と改姓して明智城を築いたと言われています。弘治2年(1556年)に稲葉山城主・斎藤義龍に攻め入られ、城主だった明智光安(光秀の叔父)は家臣らと籠城の末に討ち死にします。光秀は叔父の光安から明智家の再興を託されたそうです。

この戦さの際に光秀は城から脱出したと伝わっていますが、はっきりしたことはわかっていません。

この明智城の近くにある天龍寺には光秀の位牌や明智氏の墓があります。特に位牌は184㎝もある日本一大きなものだとか。
こういったことから光秀出生地の最有力候補と考えられています。

岐阜県恵那市の明智町

一方、恵那市には明知城があります。明知遠山氏が治めていました。この明知遠山氏は遠山景元(遠山の金さん)の先祖にあたります。

このあたりには光秀の産湯の井戸や光秀の供養塔などがありますが、出生地としての根拠は少ないと言われています。

岐阜県瑞浪市の一日市場(ひといちば)八幡神社

岐阜県瑞浪市にある一日市場八幡神社は土岐一族の始祖である源光衡が館を構えていたところで、その流れをくむ光秀のゆかりの土地と言われています。

神社の境内には光秀の像が建っています。

岐阜県大垣市の多羅城

岐阜県大垣市にある多羅城も光秀出生の地ではないかという説があります。

光秀の母は明智家当主・光綱の妹で多羅城の進士氏に嫁ぎますが、明智光綱に子どもがなかったので光秀を養子として明智家に渡したと言われています。

岐阜県山形市の中洞白山(なかほらはくさん)神社

岐阜県山形市の中洞白山神社の境内には光秀産湯の井戸跡があります。土岐元頼の子として生まれた光秀が明智光綱に養子に出されたということです。

この神社には「桔梗塚」という光秀の墓があります。また、本能寺の変の後、山崎の戦いに敗れ亡くなりますが、実は死んだのは影武者で光秀自身はこの山形市で生き延びたという説があります。

滋賀県彦根市多賀町

さて、ここまでの5ヶ所はすべて岐阜県でしたが、最後の1ヶ所は滋賀県内にあります。

場所は滋賀県彦根市多賀町。ここが光秀出身地であるということがわかる古文書が見つかったのです。次にそのことを詳しくご紹介します。

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淡海(おうみ)温故録に光秀出自の記載が!

古文書「淡海(おうみ)温故録(おんころく)」は江戸時代前期の貞享年間(1684~88年)に記され、彦根藩主の井伊家に献上したものとされています。

淡海温故録の中の「江侍伝聞録」に光秀の出身に関する記載があります。主な内容は次の通りです。

  • 佐目に明智十左衛門が住んでいた
  • 明智は美濃の者で土岐成頼に属していた
  • その後、浪人し近江の六角高頼を頼って来た
  • 六角高頼の元で2代~3代の間、佐目に居住した
  • 息子の明智十兵衛光秀は器量に優れた者で越前に行き朝倉家に仕えた
  • 朝倉家を去った後、尾張で織田信長に仕えた
  • 出世して惟任日向守と改め、丹後一国と近江国志賀郡を治める大名になった
  • 信長公に仕えていた折に徳川家康の接待役を命じられたが、対応が悪いと叱られた
  • 逆心を起こしたが、加勢する大名が少なかった
  • 多賀新左衛門、久徳六左衛門などが同心したが山崎の合戦で戦死した

大雑把にまとめましたが、このような内容が記されています。

ここで注目したいのは、佐目という地名が今も彦根市多賀町にあること、そこに移り住んだ明智十左衛門は美濃出身で土岐氏に属していたということ、その息子の明智十兵衛光秀が越前に行ったこと・・・そして本能寺の変に至ったという経緯です。

また、山崎の戦いには加勢する人が少なかったのですが、多賀氏や久徳氏など地元の武士が味方しています。多賀や久徳は多賀町の地名で、やはり深い関係があったことがわかります。

多賀町の口伝と一致

さらに多賀町佐目には「見津(けんつ)」という一族がいて、これは光秀の光(みつ)をもらって「見津(みつ)」という字を当てたのではないかという口伝が残っています。

また、光秀にゆかりのある池や明智家の関係者が逃げる際に佐目を通って三重県に行ったという口伝もあります。
これらの資料がなかなか発見されなかった理由として、資料の表紙「明智光秀の記録帳」の名が紙を貼って隠してあったということがあります。このことから明智家は長く主君を討った逆臣として逃げたり隠れたりしていた可能性があると考えられます。

光秀出身を記した最古の資料

なお、この淡海温故録は2019年の時点で光秀の出身について記したもっとも古い資料です。従来なら岐阜県出身と考えられていた光秀ですが、父か祖父の代に滋賀県多賀町に移り住んだ可能性が高いと言えますね。

なお、光秀出生地はどこかわからず、この資料からは「出身」または「ゆかりの土地」ということになります。

滋賀県多賀町の十兵衛屋敷跡

滋賀県彦根市多賀町には明智家の屋敷があったと思われる場所があります。現在は「十兵衛屋敷跡」という碑が建っています。

光秀の十兵衛屋敷跡

十兵衛屋敷跡の碑

この碑の後ろには険しい山が見えます。この地形を利用して山城が作られたのでは?と考えられています。

十兵衛屋敷跡地の様子

十兵衛屋敷跡にはこのような碑と淡海温故録の説明、多賀町佐目が光秀と関係があることを書いた新聞記事などを展示している「十兵衛茶屋」があります。

淡海温故録の説明

十兵衛屋敷跡には光秀の出身に関する記載がある「淡海温故録」の説明があります。

こちらは地元の人が作った「十兵衛茶屋」ですが、ここは無人でお茶が提供されるわけではありません。

十兵衛茶屋

光秀出身に関する資料(新聞記事)が展示しています。

十兵衛屋敷跡

十兵衛屋敷跡への行き方

十兵衛屋敷跡への行き方についてご紹介します。

多賀大社の前の国道307号線「多賀」の信号を東に入り、国道306号線を進みます。
ちょうど多賀町役場があるところを多賀大社とは反対方向に進むことになります。

306号線をまっすぐ進むとアストロパーク天究館がありますが、その前をさらに進みます。
大きな会社の工場などがあるエリアを過ぎるとしばらくは何もない道が続くので不安になりますが、佐目地区の看板が目に入ります。

滋賀県彦根市多賀町佐目地区

多賀佐目簡易郵便局があり、その先のカーブを道なりに曲がると「十兵衛屋敷跡」の案内が見えてきます。

多賀町佐目簡易郵便局

なお、十兵衛屋敷跡のすぐ近くには十二相神社があり、この案内も一緒に出ています。

十兵衛屋敷跡の案内

306号線沿いにある「駐車場」の矢印の方に沿って進むと車が何台か止められる広場があるので、そこに車を駐車します。

十兵衛屋敷跡の駐車場

駐車場の看板です
十兵衛屋敷跡の駐車場

何台か車が駐車できる広場があります。

十兵衛屋敷跡の駐車場

そこからは何軒かの民家の前を通り、十二相神社に向かって歩いていきます。

滋賀県多賀町 十二相神社

すると左手に十兵衛屋敷跡が見えます。
十兵衛屋敷跡

十兵衛屋敷跡にバスで行く方法

十兵衛屋敷跡に行くには多賀大社前駅などから大君ヶ畑線のバスに乗って佐目のバス停で降りる方法がありますが、現在このバスは予約制の乗りあいタクシーになっています。

下記の運行時間を参考に電話予約をして利用することになりますが、かなり不便なので車で行かれることをおすすめします。

佐目バス停

十兵衛屋敷跡の地図

まとめ

明智光秀の出身地は美濃(現在の岐阜県)が有力でしたが、古文書「淡海温故録」の中の記載から光秀の父または祖父の代から滋賀県彦根市多賀町佐目に住んでいたのではないかという可能性があることがわかってきました。

また地元の口伝などからも光秀がこの土地と深い関係があることがわかります。

佐目では十兵衛屋敷跡の碑があり、いつでも見ることができます。今後さらに資料が発見されるとよりくわしいことがわかるかも知れませんが、伝承のままにしておくこともロマンを感じられるのでいいかなと思います。

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