織田信長による比叡山焼き討ちは比叡山だけでなく、そのふもとの坂本の街一帯に及びました。ところが坂本の中でも「聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)だけは焼き討ちを免れています。

その理由は、この寺に信長の家臣だった森可成(もりよしなり)の墓があったからだそうです。
詳しく解説します。

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聖衆来迎寺とは

まず聖衆来迎寺がどんなお寺なのか、詳しく見ていきましょう。

聖衆来迎寺は滋賀県大津市坂本の比叡辻にある天台宗の寺院です。創建は不明な点が多いのですが、位置的なことを考えてみても伝教大師(最澄)が比叡山延暦寺を開いたころだと考えらえれています。

寺の記録では790年に最澄が地蔵菩薩を祀るための寺院を建立したのが始まりとされていますが、確かなことは不明です。

ただ、その後に源信がこの寺院にいたときに阿弥陀如来と25菩薩が紫色の雲に乗って現れるところを見たことから「紫雲聖衆来迎寺」という名がついたと言われています。

聖衆来迎寺

聖衆来迎寺と信長・森可成の関係

聖衆来迎寺には森可成の墓があります。

まず森可成と信長の関係をご説明します。

森可成は清和源氏の流れをくむ家柄で、森家は代々美濃の土岐氏に仕えていました。土岐氏が斎藤道三に敗れると、森家は織田信長に仕えるようになります。

以来、信長に仕え戦功を上げていき、近江宇佐山城(滋賀県大津市)を与えられました。姉川の戦いでも活躍しています。

その後、湖北から浅井長政・朝倉義景の軍が攻めてくると、森可成は果敢に戦います。ところが浅井・朝倉の連合軍に比叡山延暦寺の僧兵たちが加担したことから形勢は逆転し、森可成は戦死しました。
これが「宇佐山城の戦い」です。

信長は比叡山延暦寺の僧に対して交渉を試みますが、延暦寺の僧たちが応じることはありませんでした。

浅井・朝倉連合軍に延暦寺の僧兵が加担したこと、交渉に応じなかったことなどを怒った信長は、宇佐山城の戦いの翌年に比叡山の焼き討ちを命じました。

聖衆来迎寺にある森可成の墓

聖衆来迎寺の境内を奥の方に進むと、森可成の墓があります。森可成の遺体は聖衆来迎寺の住職がひそかに運んで埋葬したと言われています。

森可成の墓

そのことを知った信長が、比叡山焼き討ちの際にこの寺院だけは火をつけないように命じたのでは……と言われています。

また、同寺院には織田秀信(信長の孫)の母にあたる鈴姫(寿々)の墓もあるとのことです。

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聖衆来迎寺の御朱印

聖衆来迎寺は観光寺院ではないので見学や拝観は事前に予約が必要ですが、御朱印だけをいただきたい場合はお金を納めることでいただいて帰れます。

このように箱が置いてあるのでお金(300円)をこの引き出しに入れて、中から1枚いただいて帰るようになっています。

聖衆来迎寺の御朱印

こちらが聖衆来迎寺の御朱印です。「びわ湖百八霊場」の第十二番になっています。

聖衆来迎寺の御朱印

聖衆来迎寺の表門は坂本城の門を移築

聖衆来迎寺の表門は明智光秀の居城だった坂本城の門を移築したものだそうです。

聖衆来迎寺の表門

聖衆来迎寺の六道絵

聖衆来迎寺には国宝の「六道絵」(絹本著色六道絵)をはじめ、重要文化財である木造釈迦如来座像や木造十一面観音像、阿弥陀二十五簿雑来迎図、十六羅漢図など多くの品があり、「比叡山の正倉院」と呼ばれるほどです。

六道絵とは地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天をあらわした絵画で、実物は東京国立博物館や京都国立博物館などに寄託されていて、普段は公開されていません。

六道絵は毎年8月16日に虫干しをしますが、そのときに一般公開されています。

聖衆来迎寺の概要と行き方

聖衆来迎寺の概要

聖衆来迎寺の概要は次の通りです。

  • 住所:大津市比叡辻2-4-17
  • 電話番号:077-578-0222

拝観(見学)の予約や詳しい内容をお聞きになりたい場合は直接お電話してください。

聖衆来迎寺

なお、境内や森可成の墓の見学(参拝)は自由にできます。

聖衆来迎寺への行き方

聖衆来迎寺は県道558合線沿いの比叡辻の信号の角にあります。

聖衆来迎寺の場所

駐車場は無料で20台ほどが駐車できます。

聖衆来迎寺 駐車場

公共交通機関で行く場合は、次の方法があります。

  • JR琵琶湖線 「大津駅」からバスで来迎寺鐘化前で下車(約20分)
  • JR湖西線 「比叡山坂本駅」で下車 徒歩 15分
  • 京阪電鉄/石山坂本線 「京阪坂本駅」 で下車 徒歩 20分

聖衆来迎寺の地図

とても静かな寺院なので、ぜひ参拝してみてくださいね。

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